「泣き坂追分」(長野県) 作詞・作曲:鶴家奏英

 中山道の中でも追分宿は大きい宿場として知られていました。ここの宿の西方に追分があります。北国街道と中山道の分岐点で、今もその面影を残す、別名「分去(わかさ)れ」です。その場所に立つ石碑は誰がいつごろ建立したものかは不明。
 「さらしなは右、みよしのは左、月と花とを…」 つまり右は北国街道で更科(月の名所)方向へ、左は京都を経て吉野(桜の名所)へ行く、ここはその月と花の名所へ行く別れ道に当たります。
 宿の東方、「泣き坂」を下った入り口から枡形の茶屋まで、多くの旅籠や茶屋が軒を並べ、そこで働く飯盛女は地元出身の者だけでなく越後や美濃・越中方面 の者も多かったようです。行き交う旅人達はこの歓楽郷で飯盛女との一夜のちぎりを結び、翌朝はまた次の宿へと旅立って行き、見送る女達との別れを惜しんだ その坂道は、やがて、「泣き坂」と呼ばれるようになりました。
 この曲は、作詞・作曲の鶴家奏英氏が、「泣き坂」というどこか哀愁のある言葉の響きに強い感情を持って、ここ「追分宿」の遠い昔に題材を取って今回新たに創作したものです。

振付:可知豊親

「新さんさ時雨」(宮城県民謡)

 「さんさ時雨」を母体にして、東北民謡研究家・武田忠一郎(1892-1970)が戦前、夫人の大西玉子のために作曲しました。曲の前後は「さんさ時雨」の古調をそのまま取り入れ、中間部は現代調にアレンジし、歌謡曲的な唄いまわしに仕上げた新民謡です。

振付:松若寿恵由

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